——石黒定一君に——
もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。
もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思はざるを得ない。
しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。
我我は母の胎内にゐた時、人生に処する道を学んだであらうか?
しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。
勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。
同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちさうである。
すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。
成程世人は云ふかも知れない。「学人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。
しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。 のみならずその游泳者は悉水を飲んでをり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれてゐる。
見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠してゐるではないか?
人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大会に似たものである。
我我は人生と闘ひながら、人生と闘ふことを学ばねばならぬ。
かう云ふゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に歩み去るが好い。
自殺も亦確かに一便法である。
しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに闘はなければならぬ。
四つん這ひになつたランナアは滑稽であると共に悲惨である。
水を呑んだ游泳者も涙と笑とを催させるであらう。
我我は彼等と同じやうに、人生の悲喜劇を演ずるものである。
創痍を蒙るのはやむを得ない。
が、その創痍に堪へる為には、——世人は何と云ふかも知れない。
わたしは常に同情と諧謔とを持ちたいと思つてゐる。
芥川 龍之介 『侏儒の言葉』拠り
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